若き日の山14 奥又白池から前穂高岳 ― 2025年11月20日 22:45
確か1979年だったと思いますが、10月に相棒と2人で奥又白池に行き、翌日、A沢から前穂高岳に登りました。前穂北尾根の岩壁が目の前に迫る、一般登山道ではないコースですが、素晴らしい景観でした。
上高地徳沢から新村橋を渡り、奥又白沢の登山道を登ります。涸沢へ向かうパノラマコースを右に見て中畠新道へ進みます。道とわかる結構急な坂を登って奥又白池に着きました。登山メモを取っていなかったので所要時間は覚えていませんが、休憩も入れて分岐点から2時間くらいかと思います。他に登山者はいませんでした。池畔にテントを張った頃には確かみぞれが降ってきた記憶があります。おかげで、翌朝少し新雪をまとったすばらしい北尾根を見ることができました。もちろん、足元にも多少の雪が付いています。
下の写真は、奥又白池畔からの前穂高岳から北尾根4峰あたりまでの写真です。私のカメラにはモノクロフィルムが入っていたと思うので、相棒が撮影したものと思われます。
モノクロ写真がこちらです。前穂から北尾根6峰までが写っています。
下の写真、中央やや右ピークが前穂高岳だと思います。その右に北尾根2峰、3峰があります。
前穂北尾根4峰です。正面壁がロッククライミングのルートで有名なようです。
前穂北尾根5峰と奥又白池です。池の写っている写真はこれしか残っていませんでした。
目を東に移すと、日の出と遠くに八ヶ岳が見えました(実際の撮影時刻は、上の北尾根の写真よりも前だと思います)。
このあと、少し雪の付いた踏跡を登り、A沢に出てスリルを味わいながら稜線にたどり着きました。そこから、前穂高岳頂上まで登り、西穂高岳方面を撮影したのが下の写真です。
下の写真は涸沢岳方面で、左下のコルに穂高岳山荘が見えます。
そして北の方に目を向けると、北穂高岳の右奥に槍ヶ岳が少し顔を出していました。
この後、岳沢を下り、上高地に戻りました。
ともかく、天候には恵まれたと言える山行となりました。
中年の山2(つづき) 上高地 ― 2025年10月14日 11:52
焼岳に登った翌日、紅葉真っ只中の日曜日の上高地に無謀にも行ってしまいました。朝、宿を出た後、当時はまだ安房トンネルができていなかったので、昔ながらの国道158号線の安房峠を越えて中の湯へ下りていきます。上高地へはマイカーは行けないので、沢渡の駐車場に止めてそこからバスで行くことになります。中の湯から沢渡に来る道路は特に中の湯方向が混んでいたので嫌な予感がしていました。駐車場に駐車したらすでにバスが来ていたので列に並びましたが、まさに乗る直前で満員になり、次のバスに乗ることになってしまいました。運にも見放されます。バスダイヤはもはやないようなものでしたが、いつまでたってもバスが来ません。ようやく来て乗り込みましたが、渋滞で思うように進まず、上高地に到着したのは午後1時を回っていたと思います。
写真を見ると、まず大正池あたりから歩いたようです。河童橋に比べて人はまばらです。まず、大正池に立つ枯れ木とともに穂高連峰の撮影です。秋晴れの澄んだ空気です。観光地になるに相応しい景観です(フジクロームベルビア使用)。
下は南の方向になる昨日登った焼岳の写真です。逆光気味なのと、娘を入れた記念写真だったので景色は露出オーバーの写真でした。娘はデジタル化後、AIとやらで処理して消したので、そのあたり(真ん中より右側)の池面が若干不自然になっています。
どこのポイントからか覚えがありませんが、梓川(またはその支流)と六百山から霞沢岳への稜線の写真です。六百山は穂高のいい展望台だろうな、と思いながら、難コースと言うこともあって、結局登っていません。
梓川の右岸に立ち並ぶホテルとその背景の紅葉、そして西穂高岳の一部が見えている写真です。
人の少なそうなところを歩いて、景色を堪能するまでは良かったのですが、夕方になってバスターミナルに戻ってみると現実に引き戻されました。すでに長い長い列ができています。とても並ぶ気にならなかったので、腹ごしらえをして時間をつぶそうと思ったのが悪い選択で、戻っても長い列は何も変わりません、バスに並ぶか、列は少ないが1回に掃ける人数も少ないタクシーに並ぶか、ここも迷いました。結局、夜8時くらいにバスに乗れて、沢渡にもどり、そこから運転して、日を跨いでの帰宅となりました。当時はまだ若かったので体力的には問題はなかったようです。
ともかく、いい景色に恵まれた登山と観光の大きな代償を払った、自分の汚点として残る旅行でした。
中年の山2 焼岳 ― 2025年10月12日 22:12
先週の土曜日(10/4)、NHKのブラタモリは上高地の誕生についての放送でした。その主役である焼岳には、32年前の秋に家族3人で登りました。娘が小学校2年の時です。新穂高側の登山口からの登山です。
中尾峠に登った後、笠ヶ岳方面を撮影したのが下の写真です。雄大です。地層もよくわかります。この笠ヶ岳には次の年に家族で登ることになります。なお、このとき用いたフィルムは、すでに販売が開始されていたフジクロームベルビア(ISO50)です。
下の写真は、もう少し登ってから北の方向を撮影したものです。近景には展望台となっているピークの向こう側に青い屋根の焼岳小屋が見えます。遠景は、西穂から奥穂の稜線と、その左側に槍ヶ岳が望めます。
娘はもうしっかりとした足取りで登っていきます。そして、焼岳の頂上(前年に北峰への入山が解禁された)に到着しました。頂上からの撮影が下の写真です。奥穂から前穂の吊り尾根と岳沢がすっきりと見えます。
南側の乗鞍岳方面を望む写真です。いろんな山肌があり、その変化が面白いです。
下の2枚の写真はカラーネガ(富士フイルムのリアラ)で撮影したプリントをデジタル化したものです。1枚目が中尾峠付近からの六百山から霞沢岳の稜線です。2枚目は頂上付近から撮影した上高地方面の写真です。焼岳の噴火が元々あった渓谷(梓川の谷)を埋めたということが理解できますね。
この日は下山し、奥飛騨温泉あたりに宿泊したと思います。次の日、観光客で混んでいる上高地に足を踏み入れることになります。
若き日の山10 槍ヶ岳 ― 2025年08月22日 17:38
槍ヶ岳に登ったのは、先に書いた穂高岳山行の4年後で、社会人になった年の夏です。職場の人たち、20代の私から40代半ばの方までの6人のメンバーでした。確か、翌日の午前0時からマイカー規制で上高地に入れなくなるので、金曜日の仕事終了後すぐに出発した記憶があります。何とか間に合い、釜トンネルを越えて上高地の駐車場に日が変わる頃に到着しました。車、あるいは待合室みたいなところで仮眠して、翌朝、出発です。どうなるかわかりませんでしたが、一応、その日の目的地として槍ヶ岳山荘を目指します。小屋泊なので荷物は軽いです。最初は観光客とともに歩き、徳沢、横尾、一ノ俣とどんどん人が少なくなっていきます。だんだん勾配もきつくなり、登山道らしくなってきました。
下の写真は、槍沢の上部、槍ヶ岳が間近に見え始めた雪渓からの撮影です。まだ7月なので雪も多く残っています。このときは、モノクロフィルムをカメラに入れていたようです。たぶん、コダックのPLUS-X125だと思います。
プリントの多くを廃棄したため、残っていたのは撮影したものの一部です。
槍沢を詰めて槍ヶ岳山荘に到着したのが午後4時より前だったと記憶しています。受付を済ませた後、頂上(槍の穂先)に登りました。
下の写真はその頂上で、偶然に現れたブロッケンです。東の空にガスが湧き、夕日の差した頂上と人を映し出しています。この写真はカラープリントであり、おそらく同行者が撮影したのをいただいたものと思います。
槍ヶ岳山荘に泊まり、翌日は東鎌尾根、ヒュッテ大槍経由で上高地に下ったと思います。下の写真は、その尾根上のどこかで撮影した槍ヶ岳から北鎌尾根の稜線です。
北鎌尾根と言えば、著名な登山家が冬に遭難したことで有名です。松濤明および加藤文太郎です。松濤明については、「風雪のビバーク」というタイトルの本が出ていました。北鎌尾根で登山パートナーとともに遭難し、その最後の手記が心を打ちます。また、加藤文太郎は単独行者として有名でした。彼については新田次郎の小説「孤高の人」で描かれてます。加藤文太郎という人間をモチーフに小説化したものなので、北鎌尾根の遭難の記述については事実と異なることもあるようです。その最後の状況の描写には松濤明の手記が参考にされているとのことです。なお、加藤文太郎自身は「単独行」という著書を残しています。
この北鎌尾根、大学の時、友人と一度行こうとして、七倉から高瀬川沿いに上り、湯俣山荘、さらに水俣川から千天出合付近まで入りました。「幸いにも」台風が近づいてきたので、ここで断念して引き返しました。無雪期とはいえ、技量的に無謀だったと思います。
若き日の山9 一ノ俣谷から常念岳 ― 2025年08月08日 12:24
相棒と2人で涸沢から下りてきて、横尾でテントを張ったかそのまま常念に向かったかは忘れました。横尾から約1時間北に歩くと一ノ俣沢に出会います。当時は、一般的な登山コース(登山地図で赤い線で描かれていた)ではありませんが、黒い細い線で描かれた常念乗越に出る登山道がありました。道もそれなりについており、印もありました。ただ、単なる丸太1本の濡れた橋だったり、架けられていたはずの橋や梯子が壊れていたり、難コースであることには変わりはありません。涸沢への登山開始時には30~35kgくらいあった背負子は、食料がかなり減ったとはいえ、それなりの重さがあり、それをかついで谷を行くのは少し難儀でした。いくつもの滝が出現するのですが、登ることに専念していたのか、印象がなく、また、写真を一枚も撮らなかったようです。途中からは、普通の谷コースになったと記憶しています。
常念乗越には常念小屋があり、テントサイトもありましたので、幕営しました。翌朝、日の出前に常念岳に向かいましたが、頂上に着く前に日の出が始まりました。写真を撮った順序は忘れましたが、日の出後の東の空を撮影したのが下の写真です。ここでは、エクタクロームを使っていたようです。
西側は、槍ヶ岳から穂高岳への稜線に日が当たり始めます。残念ながら、頂上部は雲がとれませんでしたので、槍の穂先は写っていません。先日、北穂から見下ろした大キレットは明確にわかります。なお、下の写真には写っていませんが、確かブロッケンが現れたと思います。
下の写真は、常念岳付近から見下ろした常念小屋とテントサイト、そして大天井岳へと続く稜線です
景色を堪能したのち、テントに戻り、東側の一の沢経由で長い山旅の帰途につきました。
若き日の山8 穂高岳 ― 2025年08月07日 17:47
若き日の山6で甲斐駒・仙丈に行った2週間後、それなりに登山を始めてから初めて北アルプスに行きました。これまで比較的人気(ひとけ)のない南アルプス中心でしたが、人気(にんき)のある北アルプスにもやはり行っておくべき、という食わず嫌いはいけないみたいな考えからです。夏の人気と言えば、穂高です。涸沢にテントを張ってその周辺を歩きました。記憶が怪しいのですが、出だし、上高地から入って小梨平にテントを張ったら雨に降られて、翌日、横尾で濡れたものを乾かしてから涸沢に入ったと思います。涸沢に着いた後は、まず前穂北尾根の屏風のコルまで行き付近を散策したと思います。天気はいまいちだった記憶です。食料が1週間分くらいあったはずなので、ゆっくりできます。
翌日、北穂高岳に登りました、たぶん。下の写真はその途中か頂上あたりで撮影した前穂高岳と北尾根です。右に奥穂高岳があります。涸沢カールの残雪はお盆近くだとこんな感じでした。なお、フィルムはネガフィルムでコダカラーです。プリントの縁に東洋現像所のロゴマークとプリントした年(西暦下2桁)が確認できます。ロゴマークはたぶん極東研究所とよばれていたところの頭文字(FEL)なのでしょう。なお、東洋現像所は今はイマジカとなっていると思います。
色がかなり褪せています。45年も経つので仕方ありません。ネガは定年直前の引っ越しですべて廃棄してしまいました。一部のプリントのみ残しました。リバーサルではなく、ネガを使った理由は、・・・単にそういう気分だった???
下の写真は北穂から大キレット越しの槍ヶ岳です。槍ヶ岳に登ったのは、会社に入ってからとなります。
翌日(または次に天気が良くなった日)、奥穂高岳と前穂高岳に行きました。下の写真は、奥穂山頂付近からの笠ヶ岳です。谷を隔てて山全体がきれいに見えます。この笠ヶ岳には、娘が9歳くらいのときに登ることになります。
次の写真は、奥穂からのジャンダルムです。ジャンダルムとは、当時は主峰の前に立ちはだかる「前衛峰」と理解していましたが、今検索してみると、由来はフランス語の「憲兵」を意味するgendarme、と出てきます。憲兵は守ってくれるのではなく、邪魔をするのでしょうか。このジャンダルムを通るルートは難コースとなっています。この難コースルート(奥穂ー西穂縦走)は、次の年の秋に行くことになります。
下の写真は、奥穂から前穂に向かう吊り尾根の途中で撮影した前穂高岳と明神岳主稜です。さすがに、明神岳には行っていません。ただ、その稜線の向こう側にある奥又白池から前穂高岳に登る一般向け難ルートには、翌々年に行っています。
この後、涸沢に戻り、翌日はせっかくなので上高地には戻らずに、常念岳を越えて帰りました。次回、これを書きたいと思います。
中年の山1 五竜岳 ― 2025年05月10日 22:39
5月4日の記事の写真には五竜岳がありましたが、その名前の由来は明確ではないようです。説としてですが、その山に現れる雪形の4つの菱を武田信玄の旗印である武田菱と関連付けて、この山のことを御菱岳と呼んだ、それが訛って五竜岳になった、と。この説は深田久弥の名著「日本百名山」にも書かれていますが、別の説として、後立山を「ごりゅうざん」と呼んでいて、これが五竜岳に通じたのだろう、ということも書かれています。三霊山のひとつである立山を昔は「りゅうざん」とも呼んでおり、いわゆる後立山も「ごりゅうざん」と呼んでいたらしい。但し、この後立山の最高峰を意味していた「ごりゅうざん」は、のちに鹿島槍ヶ岳を指すことが確定したとのことです。ともかく、名前には何らかの理由があるはずですが、それを示す信憑性のある記録がない限り、推察・推測をはたらかせるしかありません。
大学のときには「見た」だけだった五竜岳に私が実際に登ったのは、それから20年以上経った1999年です。娘を含めて家族での登山でした。上の写真はカラープリントをデジカメでデジタル化したものです。このとき使ったのはリバーサルフィルムではなくネガフィルムで、たぶん以前書いた「リアラ」だったと思います。
八方尾根から登りましたが、日ごろの行いが悪かったらしく唐松山荘の手前で雨になりました。山荘で少し休んだら雨も小降りになったので、娘には申し訳なかったが、予定通り五竜山荘まで歩きました。翌日はいい天気になり、結果として日ごろの行いがよかったようです。朝食後、五竜山頂に登り、遠見尾根を下る途中で撮影したのが上の写真だと思います。
今後、大学時代や20代に登ったものを「若き日の山」、そのあとが「中年の山」、そして還暦以降に登ったものを「おいらくの山」として書いていきたいと思います。
若き日の山1 ― 2025年05月04日 22:42
それなりの登山靴、装備を買い、山登りを始めたのは、大学2年から3年になる頃でした。それは、春山とはいえ、雪の多い北アルプスの八方尾根であり、無謀なことはさすがにできないので、ゴンドラ(当時はまだロープウェイだったかな)で上り、第一ケルンから第三ケルン、そして上の樺というあたりまで登っただけで、国民宿舎八方池山荘に泊まりました。友人と2人です。天気がいい日で、白馬三山から五竜、鹿島槍まで雲一つなく目の前に展開していました。
当時、友人が買った白川義員のヒマラヤの写真集や白旗史朗の南アルプスの写真集を毎日(と言えるほど)眺めていて、機材がまったく違う自分たちも同じような写真を撮れる気で、コダックのリバーサルフィルムを買って出かけたものでした。
上の写真は、八方尾根を登っている途中で撮影した五竜岳・鹿島槍ヶ岳方面の写真です。下の写真は、夜中にトイレに起きたついでに外に出て撮影した白馬三山です。撮影してから50年近く経過している35mmスライドを一昨年からデジタル化してきました。カラーリバーサルはカラープリントよりはいい状態で保存されていて、当時に近い色を再現してくれていると思います(と言っても、これらはモノクロームに近い被写体です)。
新たな写真はウォーキング中のスマホ写真が多いので、野鳥とか山とかは”蔵出し”が多くなってしまいます。年代物は時代の変化(あるいは変化していないこと)を感じることもできるメリットがあります。
































